愚者と海魚
海で生まれて、海で生きてきた。
これからもずっとブドゥハの海で生活するんだと思ってた。俺には生涯を捧げたいような夢や目的は無かったし、毎日が平和に過ぎていくならそれで良いと思っていたからだ。
幼い俺にはそれ以上の未来を考える頭は無かった。
あの人がやってくるまでは。
「術を覚えてみる気はないかね?」
その人は俺たちの港町に突然やってきて、みんなに不思議な術を魅せた。俺みたいなサカナたちをヒトへと変化させる術。遠くの場所へと移動する術。物を浮かせる術。
十字マークの帽子の男は自らを「フール」と名乗った。
港町にやってきたフールは一晩の内に2階建てのお屋敷を建てた。いつの間に建てたのかは誰にも分からない。朝起きたら、何も無かった場所にお屋敷が出現していた。
フールはまるで手品師のようだった。
最初は怪しんでいた者たちも、次第にフールに声をかけるようになっていった。いつの間にか、フールが建てた十字の旗のお屋敷は、術に興味を持った者たちでいっぱいになった。
毎日、海に潜って遊んでばかりいた俺も、とうとう我慢が出来なくなった。
「明日、俺も館に行こっと」
そう決めてしまうと、その日の夜はなかなか寝付けなかった。
真夜中までうずうずが止まらなくて、起きたのはもう昼前だった。
俺は急いで館まで鱗が乾くのも構わずに空中を泳いだ。けど、なんだかおかしい。こないだまでと様子が違う。入り口の所には相変わらずヒトやサカナがたくさん群れているけど、その中心に居たあの男、フールの姿はどこにも見当たらない。
「おじさん!あの人はどこに行ったの!?」
「“君達に教える事はもう何も無い”と書置きを残して消えてしまったんだ!」
それはフールが港町を訪れてから五日目のことだった。
白昼夢でも見たんじゃないかと疑うくらい、彼は突然現れて気付いたら去っていた。でも、フールが出した大きなお屋敷は変わらず建っていた。街のみんなは「この建物をどうしようか」と何度か会議をしていたけど、最終的には今までどおり、みんなが術について話したり、考えたり、試したりする場所として残される事になった。
屋敷の中には術に関する書物がたくさん置いてあったのだ。その大半は読んでもサッパリ意味が分からなかったり、そもそも読めないものばかりだったが、サカナ達みんなが出来るようになった術が一つだけある。
人の姿になる術だった。
なんと、ヒトの姿で居る間は水が少なくてもサカナの時ほど乾かなくなるのだ。
俺はもっと術を知りたくなった。
術を使って何かをしたいとか、そんな事は考えなかったけど、俺にも未来に繋がる目的が出来た。目の前に差し出された釣り糸に引っ掛かったサカナでも構わない。術について知れるなら何でもしたい。今まで海を漂っていただけの俺に、初めて湧きあがった欲求だった。
俺は今まで海で過ごしていた時間の殆どを、フールの残した屋敷の中で過ごした。
そんなある日の事だった。
スーリヤまで商いに行っていたヒトが、フールに似たヒトを見かけたらしいという話を聞いた。確かな情報ではないし、今から行って出会えるかもわからない。それでも、会いに行きたいという欲求を止められそうになかった。俺はもう出会った頃の稚魚じゃない。迷わなかった。
「母さん。俺、スーリヤに行ってくる。ダメ?」
「どうせウチに居ても術の事しか頭に無いんでしょう?あたしは知りませんよ」
「じゃあ行ってくるよ!」
アリオン君のキャラ設定の為に書き殴った小話。
ちなみにアリオンの名前の元ネタは車・・・ではなくw
イルカ座のお話に出てくる詩人で音楽家のアリオンから。